チベットの風——
- 13 時間前
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2026年5月、北インド・ダラムサラを訪ねるご縁をいただいた。
山々の重量はどっぷりと圧倒的で、光さす稜線は軽やかで
はてない智恵と祈りを分かち合う背に、手を合わせる毎日だった。
故郷の土地を追われてもなお、希望の -Runta- は風にのり 受け継ぐ叡智は遥かな海へ注がれている。 授かる今日に感謝して、弛まず更新する姿には
深い胆力を感じてやまない。
分かちあうのは、わたし自身と、隣の人と、その隣人
種さえも超えて連なる、そのまた隣人——

ダラムサラは、パキスタンとの国境に近いインド北部、西ヒマラヤはダウラール山脈を望む山あいにある。中国チベット自治区から亡命した人々の暮らす街であり、1959年以降、亡命政府と共にダライ・ラマ法皇も身をおいている。インドにおけるチベット仏教の拠点として、各地の僧堂から僧侶たちはこの地を訪れる。
2026年、五月の終わり。
朝、空が白みを帯びる頃、白雪残る山の背後に陽が昇る。
僧堂から山肌を渡るマントラの音は、地の深みへと降りてゆく。
螺旋を描く巡礼道は、山頂に坐す仏のまわりを円環している。
右まわりに巡る人、右まわりに回るマニ車。
猿の親子は道端でどちらともなく寛いでいる。
故郷の聖山の風をよみ、我が身に映る現世を微細にまなざし、繰りかへし手当てする営みの厚みははかりしれない。どっぷりとした存在感の背景で、どれだけのつとめを引き受けているのだろう。僧侶の多くは10歳前後の幼い頃に生まれた家や故郷を離れる。僧堂に暮らし、作法を学び、修行を重ね、極めて緻密な仏教理論を学び続ける。光の届かぬ底なき底に降りながら、広大な意識を手当てする。その技法は夢にも及ぶ。言語化、身体化を伴う明確な認知も重要な修行であって、「問答」の迫力は武道のようだ。築地の競りの例えは言い得て妙で、繰り返される真剣勝負が、互いの智慧の種を芽吹かせている。そうして繁り深まる道は逞しい。
スマートフォンにつながる世界と古き叡智をともに観て、くりかへし真中へかへる意識の波は、広大な海へ注がれている。隣人をまずゆるし、傷みのある関わりにこそ慈しみを向ける慈悲の手当てに、正義の力は抜けている。温かみは溺れていない。
静かな重力と、軽やかな引力がある。 社会の都合を超える空と海。
頂にはダライ・ラマ法皇の暮らす住居がある。謁見の庭はあまりにやわらかかった。
満ちる光は無垢なるものの集合で、そのひろさに涙がこぼれた。
特別な存在が、特別な光を自ら放っているというよりも、時空を超えてより合う真のいのり、その通り道なのだと。

ダラムサラまで、デリーからセスナ機で約1.5時間。日本からは約12時間と遠く離れた土地でありながら、人々の佇まいやまなざしには言葉にし得ない親しみがある。
授かる風土(地理的環境のみならず、授かる肉体、性質、言語など)によって、感覚の触れ方、認知の仕方、振る舞いや反応は様々で、それに応じて技も解も異なるだろう。習慣、装い、世界観もいろとりどりだ。
それぞれに授かる真中にあって、存分に。 深いいのちの土壌へ降りてゆく時、私たちは際限のない仲間になるだろう。 自由に出逢い、共創できるだろう。
仏教が説く "慈悲" なるものは、"自然(じねん)の祈り" ではないか。
真中の祈りは生死をこえて Runta をなびかせる。
この身を生かす、風に、血潮に、海に、空に—— どこまでもはこぶだろう。
























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